同じ温度の夜へ

長文

Ⅰ 紗和

最近、悠真の帰りが遅い。

それだけのことなのに、部屋が広くなった気がする。

時計の針が進む音が、前よりもはっきり聞こえる。
以前は、こんな音、知らなかった。

紗和は鏡の前に立つ。

少しだけ細くなった頬。
前より整った輪郭。
朝と夜の積み重ねが、ちゃんと形になっている。

きれいになったはずだった。

そうすれば、きっと――
今よりもっと、悠真の隣にいられると思っていた。

鍵の回る音がする。

「……おかえり」

紗和が言うと、悠真は少し驚いた顔をした。

「ただいま」

優しい声だった。
優しいのに、どこか遠かった。

悠真は食卓を見て、それから紗和を見る。

「先に食べてていいよ」

そう言って、奥の部屋へ消えていく。

紗和は、用意していたもう一つの皿を見る。

湯気はもう、消えかけていた。

Ⅱ 凪

「浮気してると思うの」

紗和は、そう言って笑った。

カフェの窓際。
夕方の光が、紗和の横顔を薄く透かしている。

笑っているのに、指先はカップを強く握っていた。

凪は、すぐには答えなかった。

紗和は昔からそうだった。
壊れそうなときほど、きれいに笑う。

「確認してきて」

お願い、とは言わなかった。
けれど、その言葉には確かに祈りがあった。

凪は、小さく息を吐いた。

「……面倒な役目だな」

それでも、断れない。

昔、凪が何も言えなくなった夜、
紗和は隣に座ってくれた。

何も聞かずに。

だから今度は、凪の番だった。

Ⅲ 悠真

店のカウンターは、静かだった。

氷が溶ける音だけが、時間を刻んでいる。

悠真はスマートフォンを開く。

そこには、写真がある。

ケーキを持って笑う紗和。
ラーメンの湯気の向こうで笑う紗和。
何でもない夕食の写真。

あの頃は――

ただ、一緒に食べるだけで、幸せだった。

最近、紗和は食べない。

「私はいいの」

そう言って、微笑む。

きれいになった紗和。

努力している紗和。

でも――

その隣に、自分はいない。

画面が滲む。

指で拭っても、滲みは消えなかった。

Ⅳ 凪

悠真は、泣いていた。

声を出さずに。
ただ、紗和の写真を見つめながら。

凪は、その画面を見た。

そこにあるのは特別な瞬間じゃない。

ただの食事。
ただの夜。

けれど――
それが、一番大切なものだったのだと分かる。

「浮気なんて、してない」

悠真は、小さく言った。

「ただ……」

言葉が途切れる。

「一緒に食べなくなっただけだ」

凪は、グラスを指で弾いた。

小さな音が鳴る。

「ちゃんと向き合えよ」

悠真は答えなかった。

でも、涙は止まっていた。

Ⅴ 紗和

紗和は、食卓に座る。

皿は一つだけ。

それが、当たり前の形になりかけていた。

フォークを持つ。

けれど、食欲はなかった。

思い出す。

「それ、一口ちょうだい」

悠真は、いつもそう言った。

「太るよ」

そう言うと、笑った。

「いいよ。一緒に太るなら」

あの言葉は――
本当だったのだろうか。

紗和は、フォークを置く。

そして立ち上がる。

戸棚を開ける。

もう一枚の皿を取り出す。

ゆっくりと並べる。

それから――

一口、食べた。

味は変わらない。

なのに、胸の奥が、熱くなった。

Ⅵ 悠真

帰宅すると、明かりがついていた。

紗和は、食卓に座っていた。

目の前には――

二つの皿。

紗和が、食べている。

それだけの光景。

それだけのことなのに、

悠真の胸の奥で、何かがほどけた。

悠真は、何も言わなかった。

ただ、席に座る。

同じものを食べる。

久しぶりだった。

味は、変わらなかった。

紗和も、何も言わない。

でも――

その沈黙は、孤独ではなかった。

終章

数日後。

「紗和」

悠真が名前を呼んだ。

それだけで、紗和の心臓は小さく跳ねた。

「……食べに行かない?」

紗和は、少し驚いた顔をした。

それから、ゆっくり頷いた。

「うん」

店は、変わっていなかった。

椅子も、光も、匂いも。

紗和はメニューを見て、少し迷う。

悠真が言う。

「同じもの、頼んでもいい?」

紗和は、微笑んだ。

「うん」

料理が運ばれてくる。

湯気が立っている。

悠真が食べる。

紗和も食べる。

同じ味。

同じ温度。

言葉は少ない。

でも――

同じものを食べている。

それだけで、

失っていたはずの時間が、
静かに戻り始めていた。

完全ではない。
元通りでもない。

それでも。

紗和は知っている。

悠真も知っている。

この夜の続きは、
きっと、同じ食卓の上にある。

そして少し離れた場所で、凪は思い出していた。

二人が並んで笑っていた夜を。

もう一度――
同じ温度の夜が、二人に訪れることを、静かに信じながら。


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